愛媛県松山市のシンボル、松山城が天辺にどっしり腰を下ろしたお山が城山です。
年間を通じて観光客が大勢訪れる松山城。
観光客の姿が途絶える早朝、夕方は、健康維持のために散歩する近隣住民の憩いの場となっています。
松山市の中心部にあって道後平野のいろんな場所からも見える年中緑に覆われているお山です。
ビル群で働く人たちを癒し、時に渋滞する市中心部の空気を浄化、ヒートアイランド化する街を冷やす巨大な装置にもなっています。
山上からは海に山に川に道後平野を広く一望できます。
北から東にかけては高縄山系の山並みが見え、南東奥には石鎚山が見通せます。
南面には平野を縁取る山並みが壁のように連なって見えます。
城山の西側には大峰ヶ台や弁天山が海との間に見えます。
お山の名前は正しくは勝山と云い、城山は愛称です。
松山城築城以前も勝山と呼ばれていました。
築城以前の勝山は現在と違い、ふたつ、または三つの頂(峰)を持つ姿をしていたと考えられています。
築城に際し、山を削った土砂で谷を埋め、造成した平地に本丸が築かれました。
現在、山上の売店がある辺りにいまでも水をたたえる深さ44mの井戸があります。
井戸の底は埋め立て以前、谷だった場所で、泉があった云われています。
また、加藤嘉明が築城した当時の古地図には、現在、天守閣がある場所に池が描かれています。
寛永12年(1635年)、松平定行が入国した際、城山には樹木が無く、赤土の山のようとも、はげ山だったとも伝えられています。
木が唯一の燃料であった時代、都市近郊の山はほとんどがはげ山でした。
藩主自ら松を植え、栗を蒔き、長い年月をかけ、現在まで続く緑に包まれた自然豊かな姿に変わっていったそうです。
“松山や 秋より高き 天主閣”、“春や昔 十五万石の 城下哉”
正岡子規が俳句を詠んだ、伊予の国の政治の中心だった松山城は、慶長7年(1602年)、加藤嘉明によって築城開始されました。
一説によると、築城候補地として御幸寺山を第一候補地、勝山は第二候補地、天山を第三候補地として幕府に提出。
加藤は勝山に築城したかったのですが、第一候補地にはしませんでした。
それは、幕府がわざと、第一候補地を許可しないだろうことを読んでの策でした。
結果、読みが見事的中し、第二候補地の勝山に築城が許可されました。
松山市民にはよく知られるこの話を、裏付ける資料はまったくありません。
松山城は26年もの歳月を要して完成します。
その間に、加藤嘉明は国替えにより、会津に転封され、完成した城の姿を見ることはありませんでした。
本丸の標高は、約132m。
本壇は、本丸から8.3m、大天守の全高は本壇から20m(シャチホコの高さを入れると21.3m)。
天守閣の天辺の標高約161mは、現存する12の天守閣のうち、平山城の中では最も高い数字です。
関ヶ原以降、近世城郭における天守閣の存在はすでに戦略防衛上の役目はなく、権力を象徴し、鼓舞する巨大なランドマークでした。
住居としては作られていません。
代々の城主は城山の西南麓にあった二ノ丸御殿に暮らしました。
当時から堀之内と呼ばれる三ノ丸には、上級・中級武士の役宅が建ち並んでいました。
堀之内の四国がんガンセンターがあった北東隅の西之丸は、御殿跡です。
江戸時代の絵図では、小高い丘にウメやマツなどが植えられた庭園や茶室が描かれていました。
堀之内は現在も三方をお堀に囲まれています。
その北東部分、県庁の西隣付近にあった内堀は特に深く、亀ヶ淵と呼ばれていました。
築城時、金色の亀が現れ、棲んでいたという逸話があります。
松山城が「金亀城」や「亀郭城」とも別称される由縁のひとつです。
ほかにも、“金亀”は、城の姿が金色に輝く亀に見えたからという説もあります。
堀之内部分を頭、東北麓の東雲神社周辺を尾に見立てると亀のような姿をしているから、と云う説もあります。
維新後、堀之内は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の連兵場が設けられました。
破却・解体は免れた天守閣(本丸)は、大正に久松家へ払下された後、そのまま松山市に寄贈されました。
戦後、城山、堀之内は城山公園になり、国の史跡に指定され、登山道なども整備されました。
二ノ丸跡には城東中学校が作られました。
昭和58年(1983年)に閉校後は、跡地は平成4年(1992年)、二之丸史跡庭園として生まれ変わりました。
堀之内の国有地部分に建っていた市営球場、競輪場、市営プール、四国がんガンセンターは郊外へと移転しました。
堀之内の東部、競輪所があった場所は、御用米蔵、小普請所、御勘定所でした。
移転と同時に遺跡の発掘作業も行われました。
陶磁器や漆器、ガラス、瓦などの破片が大量に出土しました。
更地は、江戸時代の区割り、道路を再現した、芝生の公園に姿を変えました。
サーカスや祭り、県・市のイベント会場にも利用されています。
平成18年(2006年)、「日本の歴史公園100選」に選定。
2022年現在、四国がんセンターの跡地周辺は、手つかずのまま、放置されています。
その場所には、第2期整備工事にて、江戸時代の絵図で描かれている丘が再現される予定です。
平和通り側にあった北御門の跡もマーキングされる予定です。
城山公園は、歴史と自然が融合した史跡らしい姿に生まれ変わるまだ途中です。
|