港山、大丸山、忽那山は、海辺にならんだいずれも50m前後の小さな山たち。
子供たちの格好の探検場所になっている、かわいい山山です。
港山は、その名の通り、三津の港を見渡せる場所にある、ふたつ仲良く並んでいるお山です。
現在の地図では、港山の山名は東側のお山に付けられていますが、それは東側のお山の山頂に三角点がある影響です。
本来は、城址がある西側のお山が港山と呼ばれていました。
※東側は昔、東港山と呼ばれていました。
当サイトでは現代の表記に合わせ、東側を港山、西側を西港山とします。
西港山の山頂には、建武年間(1334〜37)に河野通盛が海からの侵入者に備えて築いた湊山城城址があります。
「予陽河野家譜」によると、河野家が予州家と宗家に分裂、抗争を繰り広げ、予州家の河野通春が湊山城に居城していました。
文明14年(1482)、宗家の河野教通と争い、港山の北辺りで戦死しました。
その後、湊山城は秀吉の四国侵攻の後、廃城となりました。
登山道がないため、城址に訪れる人もなく、本丸、二ノ丸跡はひっそりとヤブに包まれています。
また、西の海端には江戸時代、松山藩によって築かれた出丸がありましたが、港の開発によって消滅してしまいました。
一方、東にある港山は遊歩道が整備され、山頂に設けられた「観月公園」まで簡単に登ることができます。
南麓の、造船所との間にある不動堂は「洗心庵」とも云います。
寛政7年(1795)2月に小林一茶が松山に来た時、俳人たちと俳諧を行った庵跡です。
見晴山とも呼ばれる大丸山は、、梅津寺の海水浴場の真横にある、こんもりと森をはおったお山です。
昭和40年代、観光用リフトがあったため、当時はリフト山とも呼ばれていました。
リフト跡地の登山道を登った山頂には展望台や出土した箱式石棺があります。
登山口は、県道に分断された西麓(海側)にあります。
登山口すぐの小さな丘の上には秋山好古の銅像があります。
県道の上にかかる橋を渡り、坂道の遊歩道を登ると、秋山真之の銅像に出会えます。
秋山兄弟の銅像がある辺りは春になると桜に包まれる、お花見の名所です。
真之の銅像から上は遊歩道も狭く、急坂になり、登山道らしくなります。
ちなみに、梅津寺という地名は、現在もこの地にある梅津寺というお寺の名前に由来しています。
宝永年間(1704~11)、御幸寺山麓の千秋寺に雪广という中国僧がいました。
この地が中国の梅津という場所に似ていたと云う理由で、梅津寺が建立されました。
昭和13年(1938)、海水浴場が拡張されることになり、現在の場所に移転しました。
北吉田の工場地帯の隅っこ、海岸端にあるのが忽那山です。
忽那氏の居城・忽那山城がありました。
忽那山城(もしくは轡山城・銜山城)は、忽那因幡守藤原通定が居城しました。
応永2年(1395)頃のことです。
南北朝時代には、中島の泰ノ山の城主だった忽那式部小輔が入城。
以来、忽那氏が代代、城を治めてました。
登山道沿いにあるわずかな平地が往時の曲輪跡かも知れません。
永禄8年(1565年)、豊後の大友氏が伊予に侵攻しました。
当時の城主・忽那通著が、来島通康、村上武吉らと共に大友軍を撃退、城も守り抜きました。
通著は、織田信長の時代には、逆に豊後に出陣したりもしました。
忽那一族は、秀吉による四国侵攻で討ち死し、滅亡しました。
戦前には軍の施設が築かれていたそうです。
登山道が無いため、山頂に行くにはヤブをかき分けて登るしかありません。
平成20年代後半、地元有志がヤブの草を刈り、サクラを植樹するなどし、登山道を設けました。
けれど、整備が行き届かず、現在も夏は登山が困難です。
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