楢原山、古権現山は、えひめ自然百選の鈍川渓谷源流に位置します。
南北朝時代の長慶天皇の潜行伝説や、牛や馬を護る農民信仰の奈良原神社を山上に頂きます。
古くから山岳修験道の霊山だったお山です。
奥道後玉川県立自然公園。
愛媛森林浴88ヶ所72番。
四国百山、四国百名山。
四国の道第16番「楢原山への道」(木地~楢原山~上木地~下木地)。
開山は石鎚と同じ、役小角です。
鎌倉時代からは山岳修験の霊山となりました。
林道終点に立つ石碑に名を残す「蓮華寺」と併せ、多くの行者が常に常住していました。
山岳信仰の石鎚山がそうであるように、楢原山もお山そのものがご神体です。
楢原山山頂に建つ奈良原神社は元々、尾根伝いに南に下った古権現山付近に「奈良原権現」と称して鎮座していました。
西条市丹原の興隆寺から東三方ヶ森に至る尾根を伝い、中三方ヶ森から古権現山を経て楢原山に至る修験の道も存在していました。
南北朝時代、北朝方によって都を追われた長慶天皇が牛や馬を乗り継いで千疋峠を越えました。
そして、楢原山から東三方ヶ森を通って川内の山之内へと逃れたという伝承があります。
(松山市側の伝説では、追手の目を欺くため、後向きで乗った牛を後ずさりさせて水ヶ峠方面から楢原山方面へ逃れたと。)
牛や馬の背に乗って入山されたという伝承は麓に住まった木地師らによって各地に広まりました。
いつしか奈良原神社は牛馬の守護神として広く崇敬を集めるようになりました。
県内各地に奈良原神社の小祠が見られるのはそのためです。
長慶天皇のその後は、久米や湯山を転戦、最後は東温市牛渕の浮嶋神社に葬られたと伝えられています。
奈良原神社にも天皇の御霊が合祀されています。
(なお、長慶天皇の御陵伝説地は愛媛だけでなく、全国に点在しています。)
奈良原神社の崇敬は昭和に入っても綿綿と続き、昭和30年代には奈良原講と呼ばれる信仰結社が400を越すほどに結成されていました。
近代化にともなって農業機械の導入により、農村部から牛馬が姿を消すにつれ、かつての賑わいを失いました。
さらに、風雪にさらされた結果、栄華を誇った社殿もついには崩落の憂き目をみました。
平成13年、鎮座1300年祭の記念行事の一環として再建され、現代に至ります。
昭和9年夏、雨乞いのために社殿周辺の清掃中、盛り土が崩れ、開いた穴から二重の瓶に覆われた九輪の塔が出土しました。
それは平安時代末期の銅宝塔で、全長71.5センチ、青白磁の小壺、銅鏡、中国の古銭などの遺物も出土しました。
出土遺物は「伊予国奈良原山経塚出土品」として、昭和12年(1937)、「国宝保存法」により国宝に指定されました。
「文化財保護法」制定後の昭和31年(1956)、再度、「国宝」に指定されました。
発見以来、東京国立博物館が管理保存していました。
地元はもとより、県民の多くが里帰りを希望したため、鈍川温泉に収蔵庫が建設され、収納されました。
銅宝塔などは玉川近代美術館に収蔵されています。
(ただし、資料保存を目的に年間展示日数に制限があり、一般公開日については美術館にお問い合わせを。)
アスファルト舗装された湯の谷林道が山頂直下まで開通し、標高900mまでアクセスすることができます。
林道終点の登山口まで、松山市内から45キロ、今治市内から25キロという身近さです。
林道の他、かつての参道をなぞるような遊歩道、“四国のみち”が東西に横断しており、渓流流れる山裾から徒歩で登ることもできます。
山頂一帯はヒメニラなど、貴重な植物も多く存在する豊かな森に覆われています。
神社を取り巻くように鬱蒼と繁るブナ林も楢原山の特徴です。
登るほどに、ブナ、スギ、モミ、ツガなどの大木が現れ、“子持ち杉”など、名を持つ巨樹など、清浄幽寂の神域を醸し出しています。
以前は参道に沿ってスギの巨木が立ち並んでいました。
けれど、そのうちの11本が無断で切り倒されるという哀しい事件が起こってしまいました。
参道脇に残るあまりに巨大な切り株は往時の隆盛を物語っています。
現在の子授けや乳の出が良くなるといわれた子持ち杉ですが、いまの木は2代目。
県の天然記念物にも指定されていた初代は、台風のため折れてしまいました。
折れてもなお巨大な初代の株は参道脇にあり、いつでも会うことができます。
麓にある鈍川温泉は今治藩の湯治場として栄え、現代に至る、伊予の仙境と呼ばれる温泉郷です。
ラドンを含むアルカリ性単純泉は肌触りよく滑らかで美人の湯として人気です。
お山歩の疲れを癒すのにも最高の温泉です。
温泉旅館の一部でも日帰り入浴が楽しめるほか、温泉街入口にある「鈍川せせらぎ交流館」でもなめらかな泉質を楽しむことができます。
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