大峰ヶ台、岩子山は、松山城の西にある丘陵で、市民には馴染み深いお山です。
えひめ森林浴88ヵ所56番。
西山の通称でも呼ばれる大峰ヶ台。
昭和58年から松山市制100周年を記念し、西洋城郭風の展望台やちびっ子広場、さくらの丘など、次々と整備されました。
いまでは、大峰ヶ台より“松山総合公園”の名で市民に親しまれています。
公園整備以前は、森の中に踏み跡程度の登山道しかない“裏山”のような感じのお山でした。
千畳敷とも例えられた山頂部はなだらかに広く、木のないところでは、古墳や集落跡が土の色が異なってはっきりと分かるほどでした。
公園を造成する際、本格的に埋蔵物調査が行われました。
縄文から中世の古墳や集落跡などが発見され、それらは大峰ヶ台遺跡、大峰ヶ台古墳群と区分されています。
須恵器、土器、埴輪、鉄剣、鉄鏃、鋤先、ガラス玉など、多数が出土しました。
麓では、山の南には古照遺跡や正水遺跡、東には朝美町遺跡などがあります。
中世、大峰ヶ台は、江戸山とも呼ばれていました。
昔から蒼い森に包まれ、花も咲き乱れ、現在と変わらず、桜の名所でした。
山頂には花見山城という城があった時期もありました。
正平23年、細川頼之の家臣・仁木義尹がここに籠もりました。
それを、伊予を奪還せんとした河野通堯(通直)が攻め、義尹は大敗し、讃州(香川)へと落ち延びました。
その後、花見山城は久枝氏の居城となりました。
※和気にある花見山城とはまた別物です。
松山総合公園となった現在は、トンネルまで設けられた車道が山の裏の駐車場まで延びています。
きれいな歩道が山頂の展望広場まで作られ、人工的なお山に姿を変えています。
山頂には西洋城郭風の建物が展望台として鎮座しています。
夜間照明に夜も照らされ、見る場所によっては松山城以上に目立っています。
遊歩道沿いに四季折々に花を咲かす木木が植樹がされ、なかでも春の桜の頃は見事です。
さくらの丘と呼ばれる西麓の広場もあり、大型遊具が設置され、走り回る子どもたちの元気な声が絶えません。
駐車場では植木市が定期的に開催されています。
山裾には、うば桜で有名の大宝寺など、寺社仏閣も多数、霊園・墓地も結構な面積を占めています。
大峰ヶ台の西側に尾根繋がりな丘陵地が岩子山です。
岩子山と大峰ヶ台に挟まれた台地は住宅地や学校に利用されています。
東之池というため池の脇に、松山市考古館、私立埋蔵文化財センターがあります。
古照遺跡の復元を始め、松山周辺の埋蔵文化財について学ぶことができます。
岩子山もまた遺跡や古墳群が発掘されています。
中世にも城砦が築かれ、別名・岩子山城と呼ばれた、大空城がありました。
南北朝時代、細川家の完草出羽入道(または、岡田興一長房)が居城しました。
貞治2年、筑紫から帰国した河野通堯(通直)は花見山(大峰ヶ台)に陣を張りました。
300余騎で楯籠る完草入道を、正岡六郎ヱ門という間者の手引きによって、総攻撃。
ついには完草父子を自刃へと追い込んだと伝えられています。
完草入道の墓はこのお山のどこかにあるらしいものの、現在は不明です。
岩子山は開発が進んだ大峰ヶ台とは違い、ほとんど昔のままです。
みかん畑に利用されたり、送電鉄塔がいくつか立ち並ぶほかは自然林に覆われ、一歩森の中に入ると鳥のさえずりに包まれます。
松山市文化財情報館の脇に登山口があり、丸山という小ピークを越え、一旦鞍部へ下った後、鳥居をくぐる小径があります。
地元有志によって登山道が整備されており、岩子大権現のお社が建つ山頂も草が刈られ、居心地良くなっています。
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