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大熊山(おおくまやま)
愛媛県東温市則之内・井内・河之内
標高856.0m
▲山頂の三角点
点 名 奥惣田
種別等級 四等三角点
地形図 松山-松山南部
緯 度 33°46′01.3694
経 度 132°56′17.0641
標 高 855.96m
所在地 愛媛県東温市大字則之内丙396-1

大熊山は、850mという高地に城砦が築かれていた珍しいお山です。

麓から比高650mもの山頂に「大熊城」という城砦が築かれていました。
「伊予国周布郡地誌」 「河野家譜」「予陽河野家譜」 「伊予温故録」 「小松邑誌」等に記録が残されています。
県内でこのような標高差を持つ城砦は、新居浜市の高尾城、丹原町の立烏帽子城、小田と河辺境の笹ヶ峠砦、中山町の階上城ぐらいしかありません。
築城者は不明です。
治承4年(1180)、元暦元年(1184)、建武元年(1334)、文明11年(1479)の戦の記録が残っています。
天正13年(1585)の秀吉の四国侵攻で廃城となるまで400年もの間、城砦の機能を果たしていました。
山の高さこそが守りの要だった南北朝時代よりも古く、天文年間(1532~55)に戒能伊賀守通運(みちゆき)が築いたという説も正しくはないようです。
治承4年(1180)、元暦元年(1184)の戦は源氏と平家の争いの一端でした。
建武元年(1334)は中先代の乱と呼ばれる北条氏による鎌倉幕府復興のための反乱の失敗です。
南北朝時代、伊予は主に南朝方が支配しており、河之内の「名越城」とともに南朝方の拠点の一つでした。
室町時代から戦国時代にかけては、河野氏の守護代・戒能氏一族の居城となりました。
応仁の乱後、河野家の家督争いに乗じて細川義春が侵攻してきました。
それに対し、河野通篤(みちあつ)が大熊城に入って守備を固め、撃退したのが、文明11年(1479)の戦です。
天文22年(1553)には、久万・大除城城主の大野紀伊守利直が叛乱を起こし、小手滝城にいた戒能通運は襲撃を受けます。
用水を絶たれた小手ヶ滝城は落城し、通運は大熊城へ逃れます。
ここで大熊山の高さが遺憾なく発揮され、攻めあぐねた大野利直は撤退。
すると通運は勢いに乗って城を打って出て追撃。
大野利直に与していた小松町妙口の剣山城城主・黒川通俊を自刃まで追い詰めました。
その後、黒川通俊の子・通尭(みちたか)が仇を討たんと大熊山を攻めてきました。
このときは、岩伽羅城の和田通興、荏原城の平岡房実らの合力もあって退くことができました。
天正13年(1585)、秀吉の四国侵攻で河野家が小早川隆景から降伏を迫られます。
その際、家名を残すために降伏すべきと進言したのは、河野氏の重臣で家老職も務めた通森(通運の子)だったと、「河野家譜」にあります。

そんな歴史を刻んだ大熊城の面影は山頂から西尾根沿いに残されています。
ローカルが「一の森」と呼ぶ山頂は東西15m、南北10mほどの方形の平坦地(Ⅰの郭)となっています。
山頂の一の森は人工的に削られた岩壁の上にあり、三角点のほか、大熊大権現の小祠が祀られています。
平坦地=郭は山頂を含めて、Ⅰ~Ⅳの4つにエリア分けできます。
山頂から少し下った「二の森」と呼ばれる小ピークには短辺10m、長辺25m、縦20mほどの台形状の最大の平坦地(Ⅳの郭)があります。
立木に邪魔されず、もっとも見晴らしがいいのがⅡの郭で、伊予灘まで見通すことができます。
山頂から大きく下った標高600m足らずこんもりと大きく丸いピークは「池ヶ平(いけがなる)」とも「三の森」と呼ばれています。
平坦地は現在、シキミ畑に利用されていますが、館などがあった可能性があります。
池ヶ平と云うくらいですから、北へ少し下った窪地に湧水でできた小さな池があります。
水量が少なく、まるで湿原のようですが、少し神秘的な雰囲気を漂わせています。

登山口の奥惣田谷などで戒能と刻まれた墓石をよく見かけます。
大熊城の戒能氏の末裔で、秀吉に降伏後、帰農し、庄屋となりました。
屋敷跡は現在、「庄屋元」と呼ばれ、井内公民館や「井内」バス停がある辺りがそうです。
城主の墓所は「中野口」バス停のそばにあります。
墓前には通森から数えて五代目の子孫が慰霊のために建てた「大通庵」という庵があり、春になると大きな桜が人目を引いています。

大熊山は城址であり、大熊大権現があるピークが山頂とされています。
山体的には500m東に行ったところに最高地点が存在し、山頂よりも60m高く、標高914mとなっています。

南の谷から惣田谷川、北からは板屋ノ子川が発し、井内川に合流しています。
山肌の森林はその水源かん養林として保護育成されています。
踏み跡程度の登山道のところどころで間伐・伐採のための作業道が交錯・分岐しています。
登山道は三の森(池ヶ平)から山頂まで、基本、尾根伝いとなっています。
山行中は尾根から大きく外れないよう、心がけましょう。
一部のガイドブックが紹介している奥惣田谷集落から惣田谷川源流の谷に沿って登るルートは、経年変化によって林道も作業道もヤブまみれ。
通行困難なのでおすすめしません。

16.8km
1.6km 則之内交差点
川内IC 4km 大熊山
奥惣田谷
庄屋元 1.5km

松山市駅

伊予鉄道
横河原行き

横河原駅

伊予鉄バス
井内線

井内

伊予鉄道
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