霊仙山、満願寺山、唐子山は、今治平野南部にある小丘陵です。
高縄山系の分離丘陵で、東三方ヶ森から北東に発し、竜門山、世田・笠松山と連なる山脈の末端に位置します。
霊仙山と満願寺山は一つの山塊で、石内峠から笠松山と連絡しています。
竜門山や天道ヶ頭山塊の山山と共に朝倉谷を形成する、朝倉府中平野をぐるっと取り囲んだ山並みの一つです。
笠松山同様、痩せた地質で、松枯れ病が流行るまでは地質に適したマツが多く生えていました。
その頃はマツタケも雑キノコのように採れたそうです。
霊仙山山頂には霊仙山城という中世城址がありました。
霊仙山城は、室町時代末期、河野十八将の中川山城守親武の山城でした。
豊臣秀吉による四国侵攻の際、同じ河野一族の来島出雲守通康が豊臣方にくみしました。
その初手柄にと、天正10年(1582)、霊仙山城と竜門山城は共に襲撃を受けました。
落城後、城主も病死し、弟の中川常陸介豊住が城主となるも、天正13年(1585)、小早川隆景に攻められ、再び落城しました。
宮ヶ崎登山口がある円久寺は親武が開基したお寺で、中川山城守親武の肖像画が伝わっています。
親武の墓所は山城堂と呼ばれる円久寺奧のお堂で、“やましろさん”と愛称されています。
宮ヶ崎には円久寺のほか、冠山にある宮崎八幡宮、厳島神社、三島神社、そのほか、大小の祠やお堂があります。
それらを1時間ほどで巡る“宮ヶ崎十八寺社参拝コース”も設定されています。
宮崎八幡宮入り口にある参拝コースの案内図には“宮ヶ崎賛歌”という、宮ヶ崎を詠った歌詞が掲載されています。
霊仙山の登山口は宮ヶ崎と登畑にあり、山頂まで明瞭な登山道が整備されています。
山頂は城址らしく、二段の平坦地になっています。
ベンチも置かれ、視界を妨げる木々が伐採されていて見晴らし良好です。
満願寺山の山名は地図には載っていません。
南麓にある満願寺に由来します。
満願寺は四国曼荼羅霊場第38番、四国三十六不動霊場第21番(満願不動)の札所です。
高野山真言宗、本尊は薬師如来を祀りする、石垣も立派なお寺です。
境内には金毘羅宮も奉られた神仏混淆の寺院で、地元では“こんぴらさん”の愛称でも親しまれています。
天平6年(734)、道慈律師の開創です。
守護地頭の時代から地方の権力者との結びつきが強く、戦国時代は霊仙山城主・中川山城守親武の祈願所でした。
けれど、天正13年(1585)に霊仙山が落城した際に放火され、宝物・記録ことごとく焼失した過去を持ちます。
金毘羅宮は再建後に勧請されたもので、満願寺本堂よりも上に位置しています。
金毘羅宮より更に登ると大師堂があります。
朝倉には、朝倉下経田遺跡と云う、中世・古代・弥生時代中期末の遺構が混在する複合遺跡があります。
満願寺の絵馬堂奧のヒジリ谷には満願寺古墳があります。
満願寺山登山口は満願寺と真宮・八幡大明神、そして県道162号朝倉伊予桜井停車場線沿いの石内峠の三つあります。
満願寺山山頂には白山神社が祀られ、真宮・八幡大明神からの登山道がその参道です。
唐子山は、海水浴場や遊園地があった唐古浜から国道を挟んだ位置にあるお山です。
唐子山周辺の分離丘陵地も多数の古墳が発見され、唐子山古墳群、姫路山古墳、雉之尾古墳群などが確認されています。
唐子山古墳群からは、3基の前方後円墳をはじめ、弥生末期から6世紀後半に至る100基以上の墳墓が発見されています。
大量の鉄器や鉄剣、管玉なども出土したものの、いくつかの古墳は調査後、宅地開発で消失しました。
唐子山山頂は国府城、唐子山城、国分山城などと呼ばれた城址で、村上武吉の持城でした。
城主は麓の屋敷に住み、拝志周辺にも城下町が形成されていました。
四国侵攻の後は福島正則が入城、さらに池田景雄、 小川祐忠と城主は変わりました。
宇和郡7万石から伊予半国20万石に出世した藤堂高虎が最後の城主でした。
高虎は不便を理由に城を廃しました。
現在の今治城を築城開始すると、取り壊された石垣など、築城に必要な資材がみな持ち去られました。
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