竜門山は、今治市(旧朝倉村)と西条市(旧東予市)の境にまたがり、尖って見える山頂部が特徴的です。
山の上部は豊かな自然林、下部は水源資源林として保護されています。
麓には朝倉ダム、大明神池など、竜門山や周囲の山山が満たす湖水があります。
黒谷川やスミヤ川(北川)など、東予地方を潤す河川もこの地域から発しています。
山上は中世城趾です。
竜門山城という名の城がありました。
永正2年(1505)、河野源六通明が居城していたとされるものが最も古い記録です。
通明は中国勢に攻められ、戦死、城は落城しました。
その後、すぐ隣のお山・重地呂山にあった重地呂城の城主・武田備後守信重が入城します。
永禄5年(1562)、文台城へ移り、代わって弟の信勝が居城しました。
けれど、天正10年(1582)、来島城主・来島通康の子の通総に攻められ、竜門山城は再び落城しました。
信勝は、現在の朝倉ダム付近にあった鮎帰りの滝まで落ちのびました。
上流から流れてきた里芋で空腹を満たすも、もはやこれまでと、自刃して果てました。
菖蒲谷(勝負谷)、千人塚など、往時の激戦を物語る地名が周辺に残っています。
千人塚は、敵味方無く供養された地で、現在でも瓶棺が出土することがあるそうです。
また、別の記録では、象ヶ森城主・櫛部出雲守兼氏が隠居城として入っていました。
天正8年(1580)、長曽我部方の金子元家に攻められ、兼氏は討ち死にしました。
その地は今でも夜討ヶ窪という名で地図にも載っています。
武田信勝の墓地は朝倉ダム建設で移転され、龍門隧道出口に墓所があります。
墓所には武田菱の家紋が用いられています。
遡ると、甲斐の武田氏の流れを汲む武田宮内少輔信次(安芸金山城城主)に行き着きます。
孫の信保が伊予に渡り、河野通宣に仕え、越智家員の客将となった後、重地呂城の城主に命じられました。
信保から数えて6代目が信重、その弟が信勝です。
山頂には井戸の跡が窪地となって残されています。
竜門山下には、頓田川上流に当たる鮎帰りの滝があります。
深さ知れず滝壺があったといわれ、滝壺は大男の小便の跡という昔話も残っています。
大男が竜門山と浅地山にまたがって用を足した時の足跡が竜門山上の岩に残っているそうです。
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