愛ノ山、四尾山、すくも山、佐々久山は、西条市の道前平野にある分離丘陵です。
平成の市町村合併前は、愛ノ山、四尾山、すくも山は旧丹原町、佐々久山は旧東予市に属していました。
高縄山系の辺縁丘陵で、東三方ヶ森から南東へ伸びた支脈の末端に位置します。
愛ノ山は、川根北部山塊を源流とする高松川、西山川、天神谷川によって山塊から分断され、孤立しています。
高松川は愛ノ山の西端へ出て関屋川と共に関屋川扇状地を形成、西山川は愛ノ山の東端へ流れ出つつ、古田扇状地を形成。
なだらかで肥沃な土地に浮かぶように愛ノ山は屹立しています。
西側の川根地区は河川によって形成された河岸段丘に豊かな田園が谷いっぱいに拡がっています。
愛ノ山は南北に長い尾根を持ち、植林帯と雑木林が混合する森林に覆われています。
放置気味で木々が混んだ森の中に明瞭な登山道はありません。
古道の踏み跡をなんとかたどって登るルートが南北にあるのみです。
三角点付近は数種の断層が入り乱れる特殊な地層を有しています。
愛ノ山の東にある丹原総合公園は、元々は通称・お筆山と呼ばれる小山がありました。
お筆山山頂からは弥生時代の古墳が発見され、公園の端にお筆山古墳として移設・保存されています。
ユニークな遊具が並ぶ山頂は「銀河系巨大基地コンビネーション遊園地」という名の児童公園になっています。
高台からは、道前平野一円から燧灘、石鎚山系、赤石山系、法皇山脈まで見通すことができます。
児童公園を取り囲む白い城壁は、耳金城と呼ばれた中世城址を現代風にアレンジしたものです。
耳金城は南北朝時代には存在したお城です。
讃岐の細川氏に度度攻め落とされ、豊臣秀吉の四国侵攻で落城した際の城主だった田中久五郎通澄は帰農しました。
城址の下から弥生時代の土坑墓が見つかっており、墳墓の上に築城されたと考えられています。
総合公園の北には、300本の桜並木が咲き誇るお花見の名所で古刹の久妙寺があります。
久妙寺地区は寺名がそのまま地域名となっています。
周辺から、久妙寺古墳群のほか、築山古墳、阿弥陀堂古墳、荒神谷古墳など発見されています。
児童公園からちょうど見下ろす位置にあるのが四尾山とすくも山です。
まるで水田に浮かぶ小島のように平地が急に盛り上がった不思議な独立丘陵です。
今井地区には、長者が秋に刈り取った藁しぶを積んだ山が「しぶ山(四尾山)」です。
もみがら=すくもを捨てたのが「すくも山」になったという昔話が伝わっています。
別の話では、その長者は欲深かったそう。
稲が一夜のうちに石の山になってしまい(これが四尾山)、これを「神様のおさとし」と長者は改心します。
その後、世のために尽くすようになり、「おしぶ長者さま」と尊敬されたそうです。
すくも山は山全体が古墳と見られる赤土のお山ですけど、形態・遺構、出土品などは不明のままです
四尾山も古墳や城址のあるお山で、福岡八幡神社のある山頂は今井三郎右衛門信氏が築城した福岡城がありました。
麓にある生木地蔵は四国八十八ヶ所霊場の別格寺院第11番札所です。
四国巡錫中の弘法大師が四尾山の麓で仮寝をしました。
その際、光と共に現れた童子を見て、「童子の化身を以て我に示し給う」と楠の大木に延命地蔵大菩薩像を刻みます。
その生木のお地蔵さまがご本尊となっています。
楠の大木は昭和29年(1954)、洞爺丸台風で倒壊。
境内に横たわったままの姿で祀られています。
損傷を免れたお地蔵様は本堂に安置されています。
佐々久山は旧東予市、佐々久原(佐志久原)とよばれる平地にある独立丘陵です。
南北に800mほどの稜線を持つお山です。
こちらも古墳時代の遺跡が多数出土し、佐々久遺跡群と呼ばれる山全体が道前平野最大の遺跡群だそうです。
山上にある佐々久神社は創建当時は南麓にありました。
耳金城を堕とした康暦元年・天授5年(1379)の讃岐細川氏の侵攻で放火されて焼け落ちました。
元禄14年(1727)、現在地に再建されたそうです。
上記の細川氏の侵攻の際、当時の伊予守護だった河野通堯が佐々久原の戦いで討死しています。
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