長者森・長者池から、高縄山と高萩山

スクモ塚から

高萩山(たかはぎやま)
愛媛県松山市(旧北条市)小山田、萩原/今治市菊間町西山
標高355m
▲山頂の三角点
点 名 高萩山
種別等級 四等三角点
地形図 松山-松山北部
緯 度 33°59′54.8063
経 度 132°50′02.3126
標 高 355.50m
所在地 愛媛県松山市大字小山田字高荻乙492
貫之山(つらゆきやま)
愛媛県松山市(旧北条市)猿川原
標高約150m
※三角点はありません。

高萩山貫之山は旧北条立岩の谷にあるお山です。

高萩山は、松山市と菊間町との市境にあります。
海に向かうほどに緩やかに拡がる高縄山の山裾が形成する標高2、300mほどの丘陵地帯に属しています。
高萩山は市境の山らしく周囲より頭一つ高く、北条旧市街からも見えます。
名石山やスクモ塚は小富士山のような円錐形な姿をしているのに比べ、高萩山は子牛の背のような優しい形をしています。
冬も緑に包む山林は自然林と人工林が混在し、登山道を覆い隠すほどに豊かです。
西麓はゴルフ場、東麓はみかん畑に広々と利用されているものの、しばらく人が立ち入ってないかのような静かな森がほとんどです。
小山田地区の奥に林道があり、南麓の植林帯を何度もジグザグと上ると山頂直下まで行くことができます。
山頂は潅木のヤブに覆われ、展望は得られません。
もうひとつの登山道が、県道を市境の峠を越え、菊間町奥西山の谷の奥にあります。
こちらの道は古くからよく使い込まれたような、溝のようになったはっきりとした道です。
けれど、近年は往来が絶えてしまい、すっかりヤブに負けてしまっています。

貫之山は北条・立岩地区にあり、山名は歌人・紀貫之に由来しています。
紀貫之の墓と云われる物が立岩小学校の真向かい、南麓の山中にあるお堂に安置されています。
山頂にある神社も紀貫之神社という名前です。
紀貫之は平安時代の歌人で、古今和歌集の編纂に携わった一人です。
土佐の国の国司に任ぜられ、4年を土佐で過ごし、京に帰る様子を日記風に綴ったのが有名な土佐日記です。
紀貫之の墓は全国に複数有り、最も有名なお墓は、京都比叡山延暦寺の裳立山(もたてやま)という山中にあります。
木工権頭(宮廷の建築・土木・修理を受け持つ木工寮の長)に任ぜられた際、比叡山へ、親交があった良源を訪れました。
良源は天台宗中興の祖です。
その際、琵琶湖を見下ろす絶景の地を永眠の場所にと自ら選んだと云われ、遺髪や爪が埋められているそうです。
貫之山のお墓が貫之のお墓であるというのは多分に疑わしいのですけど、謂われが残っています。
天慶9年、天皇の命により伊予の国の諸神社に奉幣すべく訪れた際の4月29日、この場所で病死した、というものです。
“今日祭る 神の心やなびくらむ 卯月の匂ふ 花恒の里”という和歌を遺したそうです。
また、紀貫之の末裔、紀実平も合祀されています。
紀実平は、源実朝から甲ヶ森城(城川町)を賜った際、この貫之の墓に立ち寄り、その後、病死したという話しもあります。
明治期の資料には、貫之にしろ、実平にしろ、疑わしいと記すものもあります。
ちなみに、紀貫之のお墓は城川町の報恩寺にもあり、報恩寺は甲ヶ森城の麓にあるお寺です。

和歌の額が奉納されている紀貫之神社は、歯の神様という別の顔もあります。
歯痛を患った者が祈願したところ、平癒したという話しが多く遺されているそうです。
現在の貫之山はツツジの名所です。
昭和48年、隣接する立岩小学校の児童らが西側斜面の1.5ヘクタールに約3800本のツツジを植えました。
以来、大切に育てられ、春になると色とりどりに咲き誇ります。
毎年、5月の初め頃、立岩つつじ祭りが行われています。
近年、ツツジの斜面に展望台が設けられ、見晴らしも◎です。

菊間町奥西山
300m 2.5km
高萩山
2km 小山田
1.6km
800m 300m
貫之山
200m
北条中西 4.7km 1km
16.3km 才之原
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