天道ヶ頭は、大きな裾野が朝倉、今治、玉川に跨る山塊です。
“天道”とは“お天道様”=太陽、もしくは太陽の通り道という意味があります。
春分、秋分の日の夕方、朝倉支所がある朝倉南野々瀬から西の方角を見ると天道ヶ頭の“頭”、すなわち山頂に太陽が沈みます。
7世紀後半には新田開発が行われていた朝倉地方は古くから農耕豊かな地でした。
春の訪れを告げる春分の日、神様に豊作を祝う秋分の日の訪れを知ることは農村においては暮らしに直結する重要なことでした。
正確な暦や時計、コンパスもなく、太陽や月の運行が頼りだった時代でも、太陽が天道ヶ頭のどこに沈むかで知ることができました。
現代の地図には名前が載っていない無名峰扱いですが、地元では有名なお山です。
天道ヶ頭を中心とする天道ヶ頭山塊は石灰岩で形成され、花崗岩が主体の高縄半島に於いては異質です。
露出した石灰岩の一部は、多伎神社の奥宮・盤座神社の「ふすべ岩」など巨石信仰の対象になっているものもあります。
石灰岩と花崗岩の接触によって水銀(朱)、銅、鉄などの鉱物が形成され、古くから産出されています。
近隣に残る玉川、丹生川、鋳物師が谷、五十嵐、イカリ、金子、金山などの地名は、鉱山だった頃の名残です。
登山口がある金山には銅山跡が残っています。
江戸時代の慶応2年(1886)、財政が逼迫した今治藩の財政立て直しの一助として銅鉱を採掘しましたがすぐに中止しました。
明治に入って住友鉱業が採掘を開始、昭和20年頃までつづけられましたが、産出量が乏しく、廃抗となりました。
7世紀頃、九州行幸の折に立ち寄った斉明天皇や、越智・河野氏の祖・小千(越智)守興にまつわる場所がたくさんあります。
金山の入口にある峠地区は小千守興が愛した夏姫と小千皇子が居住したところと云われています。
幼くして亡くなった小千皇子を祀った皇子神社があります。
※皇子は長慶天皇の皇子の伊予皇子という説も。
県道沿いにある峠地区から金山地区まで林道が通じています。
竹林の中に古い石垣が残る金山の少し手前に階段が用意された登山口があります。
そのほかに、内ヶ畑方面から山頂近くまで作業道が開通しています。
山頂付近には朝倉の町に向けた側に平らかな場所がいくつかあります。
お盆時期に虫送りの火祭りで万灯が焚かれる場になるなど、神事に利用されたそうです。
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