ヌタノサコは、石手川ダムのほとり、湯山柳町の背後にそびえるお山です。
明治時代に作成された『温泉郡地誌』の「柳村」の頁に、
ヌタノサコ
本村の北にあり、山脈北は風早郡神次郎村山岳に連る樹木あり、登路1条神次郎村往還
「神次郎」の頁には別名で、
クルメ山
麓回45町53間、村の巽位にありて嶺上より之を分かち、東は温泉郡湯山村柳村に属し、南は本郡菅沢村に属し、西北本村に属す、山脈東南柳菅沢村諸山に連り、北は本村ホウシ山に亘る、樹木鬱蒼、登路1条、村の東方5町30間字カヤノ谷より上る4町41間険なり、渓水1条名付けて萱ノ谷と云う北に向け下流土名川に入る、橋3尺
とあります。
現代の地図では無名峰ですが、明治時代の地誌付属の地図にのみ載っている古いお山です。
南麓に湯山柳の集落を抱き、西は伊台に向かって山稜を連ね、北から東にかけての山裾は五明川が流れています。
湯山地区の名産・湯山タケノコを産する竹林が点在しています。
自然林も豊富に残り、松山市の貴重な水源涵養林の一部をなしています。
麓の湯山柳は、温泉郡が松山市に合併されるまで柳村と呼ばれていました。
村名の“柳”は集落の中心にある柳素鵞神社の由緒に由来しています。
さかのぼること神代の時代、伊予国にやって来た大国主命が熟田津の石湯=道後温泉を発見しました。
その源泉を探して東の山の分け入り、この地で「吾者湯爾來」と宣言、須佐之男命を祀りました。
後に里人たちが「湯爾来宮」を祠を建立しました。
その「湯爾来」がいつしか「也奈来」になり、「柳」の文字と変わったと伝えられています。
柳素鵞神社は明治時代に改名されるまで「午頭天王社」と呼ばれていました。
市街地からは離れた不便な山中にありながら、霊験あらたかな御利益を求め、縁日時には椿さんに匹敵するほど賑わったそうです。
その往時の賑わい、往来の名残が神次郎や末に繋がる往還です。
旧末村往還は舗装され、峠の地蔵様や急な坂道にしか、在りし日の面影を見ることはできません。
神次郎往還は山里同士を結んでいた古道の名残を感じることができます。
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