南三方ヶ森は、松山・今治(玉川)・東温(重信)の3市の境界にあるお山です。
現地形図では、白潰という名前でよく知られています。
高縄山系に属し、北三方ヶ森から南へ発した尾根が東三方ヶ森方面(東)、明神ヶ森方面(西)に分岐する場所に位置しています。
西に降った雨は伊予灘へ、東に落ちた雨は燧灘へそれぞれ流れ下る分水嶺です。
石手川や蒼社川、重信川など、松山・今治平野を潤す重要河川の水源が集中しています。
豊かな森林は水源かん養林として大切に保護・育成・管理されています。
松山市側では市民参加による植林・間伐活動も盛んに行われています。
東温、今治側は国有林で植林された針葉樹が多いです。
松山側は愛媛大学農学部附属演習林と民有林で植林帯のほか、ブナなど天然の広葉樹も残されています。
山頂部は二つに別れていて、3市の境界が交わるピークが最高峰です。
西尾根方向に100mほど離れて四等三角点が埋設されたピークがあります。
領家帯の花崗岩で形成された地質です。
中央構造線が東温市南部で桜樹屈曲と呼ばれるS字状に約10km湾曲している影響を受けています。
広く破砕され、崩れやすくなったとみられ、地すべり性崩壊した地形があちらこちらに見られます。
地図には、雨水で谷状に浸食された地形=雨裂(またはガリ)を示す“!”マークが多数書き込まれています。
雨水を集める無数の谷も雨裂が発達したものです。
谷筋の急に切り立った斜面は土砂崩れが頻発しやすく、砂防堤が各所に築かれています。
最高峰の南斜面は大きく崩れ落ち、切り立った岩崖となっています。
潰えて(崩壊して)白っぽく変質した花崗岩が露出していて、その姿が“白潰”という地名の由来になったのでしょう。
東尾根は真砂土状態でもろく、左右の斜面とも表土がバッサリ崩れ落ちていて、登攀を困難なものにしています。
愛媛大学農学部附属演習林では、土砂流出防備保安林の特性を活かした試験研究が行われています。
山頂で交わる3本の市境尾根は昔から縦走路が拓かれています。
福見山の福見寺、楢原山の奈良原神社、丹原の黒滝神社・西山興隆寺を結ぶ修験道の道としても古くから利用されてきました。
水ヶ峠~北三方ヶ森間の北尾根は現代でも市境線に沿ってササが刈られ、四国のみちとして整備されています。
車両で入山できる林道は3市のいずれにも整備はされています。
松山側は愛媛大学農学部附属演習林内、今治側は国有林内にあるため、ゲートによって通行が規制されています。
もっとも山頂に近づける東温市側の黒滝林道は土砂崩れ多発地帯を通過します。
毎年どこかで崩れ埋まる有様で、直近までアクセスできるのは崩落土砂の撤去待ちとなります。
南三方ヶ森という山名は現代の地図には載っていません。
明治に国土地理院の前身、日本陸軍の外局・陸地測量部が日本地図を編纂した際も南三方ヶ森は使われませんでした。
けれど、明治初期に作成された『温泉郡地図地誌附』という古地図のほか、市町村誌には記載されています。
地域によって呼び名が異なりました。
温泉郡(現・松山市)では南三方ヶ森。
越智郡(現・今治市)では奥三方ヶ森。
久米郡(現・東温市)では西三方ヶ森と記されています。
愛媛県地誌・温泉郡誌の湯山村誌・今治地誌集では南三方ヶ森。
温泉郡誌の北吉井村誌・山之内村地誌では西三方ヶ森と記述されています。
今治地誌集より
南三方ヶ森、高サ未詳、麓回、六里弐拾町、郡ノ南方ニ在リ東南ハ久米郡ニ属シ、西ハ温泉郡ニ属シ、北ハ本郡ニ属ス。
山脈東ハ東三方ヶ森ニ連リ、南ハ久米郡福見山ニ亘リ、西北ハ北三方ヶ森ニ通ス。
山勢峻嶮、樹木欝蒼、渓水六條、登路三條アリ。
温泉郡誌より
山名 位置 高さ 地勢上の関係
南三方ヶ森山 北吉井村大字山之内の北方 3,100 西福見山と対す
「南」「奥」「西」と異なるのはお山を見ている場所の違いからきています。
松山方面から見ると、お山は北三方ヶ森の「南」に位置しているため、「南三方ヶ森」、
東温方面から見ると、お山は東三方ヶ森の「東」に位置しているため、「西三方ヶ森」、
今治方面から見ると、お山は越智郡のもっとも「奥」に位置しているので、「奥三方ヶ森」。
南三方ヶ森と東三方ヶ森の「中間」にある、玉川・今治・川内の旧境だったピークは「中三方ヶ森」と呼ばれていました。
久米郡誌から。
川上村村誌から
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白潰は現代の地図に記載されています。
戦後、国土地理院が地図編纂部署になっても現在に至るまで白潰は維持されています。
ただし、当初から白潰は山名を示す書体・右肩上がりの傾斜体ではありませんでした。
(傾斜体=旧図式では聳肩体、現図式は右傾斜体)
普通地名の直方体(ゴシック体)が用いられており、山名ではありませんでした。
明治に出版された書籍にも山名としての白潰は登場しません。
大正6年発行の愛媛県誌稿辺りから“白潰山”が使用されています。
頻繁に使われ始めたのは昭和以降です。
戦後の登山ブームに合わせて発刊されたガイドブックや山行記が“白潰”を用いたことから一般化したと考えられます。
白潰が一般化した一方で、“南三方ヶ森”は活字からも姿を消してゆきました。
南三方ヶ森の別称の“西三方ヶ森”は、北川淳一郎氏の「愛媛の山岳」にて、東三方ヶ森~白潰間にあるピークとして登場します。
白潰までの中闇に西三方森、1232米、1200米などの峰々を越える。
白潰の直ぐ下には高商がテントを張った跡があり、脱ぎ棄てられた足袋、空のキャラメル箱などが散らかってゐた。
「ふるさとの山山」など、北川氏が著した多くの山行記や、氏が所属した山岳会の影響も考えられます。
以降の郷土誌などにおいて白潰と西三方ヶ森は別のものとして描かれるようになりました。
愛媛県立公園自然ガイドブックから
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“南三方ヶ森”という山名についての更なる詳細は「自由研究 地図から消えた○三方ヶ森」をご覧下さい。
魚谷森は南三方ヶ森の北尾根上にあるピークの一つです。
『温泉郡地図地誌附』にしか載っていない山名です。
愛媛大学農学部附属演習林にあり、西尾根の左右の谷は石手川の源流となっています。
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