竜門山へ行こう!
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下記写真の場所

玉川から県道154号東予玉川線を西進。
竜門山が最初に見える場所がこの、さやの峠です。
合併以前は玉川と朝倉の境でした。

「朝倉村サヤの峠
 標高270.5メートル」

朝倉側に入ると、谷の彼方に尖った姿の竜門山が遠望できます。
ここから県道は山道らしくくねくねと下ります。



  

浅地口で県道と別れます。
横断歩道の所でくぃっと右折します。
(春は桜もきれい)

  

コーナーの内側には-

「黒谷←」などの案内があります。

  

田園地帯の分かれ道にはちゃんと案内があります。

ひとまず、「朝倉ダム」の方へ。



  

緑水公園へちょっと寄り道してみます。

「緑水公園」の方へ左折。
寄り道×な方はダムの方へ。

緑に包まれた車道を奥まで進むと-



朝倉ダムの真下に作られた緑水公園に。
駐車場から一段高いところに-

人工池を中心に緑の芝生、バーべキュー施設などが整備されています。
写真奥の山が竜門山で、右の緑の土手がダムです。

「あさくらダム」。

水道ホースで水が補給されてる浅い池の横にあるBBQ施設には、
夏休み最後の休日を楽しむ家族で賑わっていました。

ダムは渇水でオーバーフローもちょろちょろ。

  

寄り道終了。
まで戻らずとも、ログハウスがある途中の分岐を左折すれば、
写真の丁字路に出られます。



龍門隧道を抜けたら、すぐ-

竜門山城の城主・武田信勝の墓所があります。
お山に登らせていただく前にご挨拶を。

「龍門山城主  武田信勝公墓所」

武田信勝公墓所

信勝公は伊予の戦国大名河野氏に属し、永禄5年(1562年)竜門山城主となる。天正10年(1582年)来島通総来攻により落城し、自刃す。
嫡子信吉(富若丸)は無量寺で成人し、郷代官をつとむ子孫は代々庄屋職継ぐ。
墓碑は、宝暦年間(1750年頃)水之上大庄屋らによって黒谷川(鮎帰りの滝)の近くに建てられ(あいがりさん)と呼ばれ祀られた。
昭和51年(1976年)朝倉ダム建設に伴い、この地に移転し武田同族会により整備された。

石畳の奥に-

お墓があります。

甲斐の武田氏の流れを汲む証の武田菱。



墓所からすぐに朝倉ダム。
竜門山の西麓に設けられています。

ダムの水は緑水公園の脇を下り、頓田川となって、
朝倉から桜井、唐古浜方面の田畑を潤します。

訪問当日は大渇水で湖岸の土手が露わに。

普段は青青とした水を湛えています。

中央に見えるのは大黒山。

  

芝生の空き地に案内があります。

緑水公園は、県営水環境整備事業により親水施設、親水護岸、休憩施設等を建設し、ダムの保全管理を図ると共に、水辺空間を活用し、住民の憩いの場・都市との交流の場として豊かで潤いのある生活環境を創造するため、朝倉ダムの周辺整備の一環として整備したものである。
朝倉ダムは、県営かんがい排水事業により二級河川頓田川水系黒谷川に昭和45年から56年にかけて築造された有効貯水量1,400千立方メートルの中心コア型フィルダムである。
ダムとともに総延長28.4kmのパイプライン・開水路を建設し、頓田川沿岸の田・畑・樹園地1,016haに農業用水を供給するものである。

  

ふるさとこみちあんない

16 龍門山城趾 朝倉ダム

鎌倉時代・長井斉藤景忠の築城といわれ、戦国時代末期武田氏が居城とした。
天正年間来島氏の来攻に滅亡している。
櫛部氏も居城としたとの記録もある。山頂に石積みや井戸跡の一部が見られる。
ダムは龍門山の西北麓に造られた土堰堤のダムで、今治東南部地方の灌漑用水として利用されている。
近年付近の景観整備に力をいれている。

ふるさとこみち 次への案内 17 大明神池 東南方へ1.5Km

庄内公民館・庄内地区生涯学習推進委員会

ふるさとこみちあんない

13 大元神社と大杉と日本一の桧

弓の奉射神事の風習を残す大元神社は、文治元年(1185)黒谷・開元とともに建立された。
境内には樹令800有余年の巨木と、目本一の桧(双樹)が聳えている。
杉は目通り9m根廻り11m高さ約35mのの巨木である。
桧は、目通り3m高さ約40mの双樹である。
天空を摩し古い歴史を物語っているようである。 

ふるさとこみち 次への案内 14 乳母の墓 西方へ約800m

庄内公民館・庄内地区生涯学習推進委員会

大元神社と巨木はここにはありません。
黒谷集落の奥にあります。



ダムから数分走ると山間に家並みが並ぶ黒谷集落。
写真右の階段を上がると、
ふるさとこみちの15番「黒谷庵」があります・

ふるさとこみちあんない

15 黒谷庵

頓田川北岸の高台に延命地蔵と毛頭観音をまつる庵がある。
まつられた木造仏7体は鎌倉中期~江戸時代のもので、木造仏としては古く貴重なものである。
最近地区民の浄財により改築や仏像の修理が行なわれた。
庵の上側一段高い所は大正初期まであった庄内小字校分校跡で、一基の石碑が建てられ昔の面影を偲ぶことができる。

14 龍門山城趾・朝倉ダム

庄内公民館・庄内地区生涯学習推進委員会

黒谷庵の由来

文治元年(1185)、鎌倉幕府は全国を平定すると、天皇家の勅許を得て、全国に守護・地頭職を配置し、各地の管領にあたらせた。
伊予初代守護職は、源頼朝の側近、近江源氏・佐々木三郎盛綱が任じられた。
しかし盛綱は、同時に五ヶ国の守護地頭職に任じられたため、伊予の経営はその被官である長井斉藤藤氏の手に委ねられた。
ここに伊予における長井斉藤氏の歴史が始まったのである。
長井斎藤別当実盛公の嫡孫・景忠は、伊予に来住すると、竜門山の険峻に砦を構築し、奥の黒谷盆地を兵站補給基地にさだめた。
併せて、黒谷の秘境に長井家の氏神・白山神社を祀り、式内布都神社に祖父実盛公を合祀し、地方の名刹雲仙山満願寺に実盛供養塔を建立して、祖霊を厚くとむらった。
それと同時に建立されたのが、大元神社とこの黒谷寺であり、黒谷寺は中世以降、栄え続けてきた古寺である。
南北朝時代に入って、隣国の細川氏と伊予河野氏の間に抗争が起り、細川氏に加勢した長井氏は、のち河野勢に追われ、はるばる海を渡って、近江源氏・佐々木氏に仕えた。
しかし、戦国末期に至って、織田信長の軍勢によって、浅井長政が小谷城で討たれたため、再度、海を渡って、伊予の故地を訪ね、この黒谷盆地に移住したのである。
江戸時代以降は、こ
の地の土豪となり、その一族は、高大寺・古谷・孫兵ヱ作・旦之上・吉岡・徳能などに分家し、それぞれに庄屋職などを勤めた。
いまも黒谷観音屋では、実盛公遺物の観音像の御開扉が行われ地域の世話人において、各地で白山講、実盛講などを営み、長一族はつよい結集力を誇っている。



  

茶色い公民館の手前を左折、橋を渡ります。

  

公民館にある案内図。



すみません、もうひとつ、寄り道。
橋を渡らず、集落の奥へ進むと-

田んぼの奥に大元神社があります。
ダムにあった「ふるさとのこみち」看板にあった神社です。
看板に書かれてた大木が、
お堂の正面にそびえる、二本の巨大な桧です。

市指定文化財 天然記念物

黒谷の檜一対

平成9年3月28日指定

黒谷の大元神社の境内にある双樹の檜は、幹の目通りは3.1メートル、根廻り3.5メートル、樹高28メートルの老樹である。
伝承によると、文治元年(1185)伊予の初代守護職佐々木三郎盛網の重臣といわれた長井斎藤景忠(斎藤別当実盛の孫)が伊予の守護にとして来住、その一族の者の手によって植えられたと伝えられている。

東予市教育委員会

こちらが大杉っ!

境内右の林の中に大杉は聳えています。

市指定文化財 天然記念物

大元神社の大杉

昭和58年7月18日指定

この老杉は、平家落人の伝説を秘めた秘境黒の谷の鎮守大元神社の境内にある。
黒谷川と北谷川の合流点にそびえ、樹齢八百年と推定される。
目通り7メートル、根回り9.5メートル、高さ約28メートルの巨木である。
木の中心部分に落雷による焼け跡がある。
地域の人々により守られ、信仰の対象ともなっている。

東予市教有委員会

寄り道終了。
橋を渡り、田んぼに挟まれた小道を西へ。
左を見れば竜門山。



田んぼが終わると山道っぽくなります。
路肩が崩れてます。
でも、一年以上、このまま、放置されてます。

今度は、山栗のイガイガ地雷攻撃っ!
パンクはしないけど、手で触ると痛いっ!

狭めの山道です。
のんびり走りましょう。



山道を上りきった峠のような場所が、
竜門山への登山口がある峠です。

写真左の木陰に立つ電信柱の所が登り口です。
どこから来たのか、まさ土がこんもり。

この峠の右の土手、竜門山の反対側には、大黒山の登山口もあります。

去年までは案内が立ってたんですけど、
朽ちて無くなってしまったようでした。

この峠からは、視界は狭いものの、天気が良ければ、
東予の街並みや、新居浜の海岸線まで見通せます。

ひとりごと

朝倉ダムは1年ちょっとぶりの再訪。
下の緑水公園には初めて立ち入ってみました。
夏休み最終の日曜日で、車が数台、行き止まりまで乗り入れてました。
バーベキュー施設からは美味しそうな白煙が立ち上り、芝生の上を子ども達が走り回っていました。
適当に人工で、適当に自然があって、そうそう人も来なくて静か。
アウトドア・ファミリーにおすすめです。

その後、竜門山城の城主のお墓にお詣り。
入山のお許しを請い、登山の無事をお祈り。
気の持ちようなんですけどね。
一応、ご挨拶しとかないと、なにかあったら「やっぱり…」って、後で思うのもいやなので。

朝倉ダムは、途中で通ってきた石手川ダムや玉川ダム同様、渇水状態でした。
ダムって、水かさがうんと減ると、湖底に沈んだ建物が現れる時がありますよね。
子どもの頃、石手川ダムで役場かなにかの建物が露わになったのを見たことがあります。
玉川ダムなら神社の跡とか、数年前に出てました。
ここ、朝倉ダムもお墓とか、湖底にあるとか、ないとか。
今年はそれほどの渇水じゃないので見られなかったけど、早明浦ダムはついに0%!!
沈んでた大川村役場とか、出て来てるのかな?
日本中で、短時間に集中的に降るゲリラ豪雨の被害が頻発しているのに、四国だけカラッカラ。
四国から吸い取られた水分が他所で雨になって落ちてる感じ。
困ったもんですねぇ。
ゲリラ豪雨なんて、スコールみたいで、日本が東南アジア化してる証拠かな。

黒谷地区の奥にある大杉。
周りの木が邪魔してレンズに収まりきれないくらい、大きいです。

大杉、大きすぎ…。

ダジャレかよっ!

巨木パワーを分けてもらったら、いよいよ、竜門山へ突入です。
さやの峠から視界に現れては消え隠れしてた竜門山。
実のところ、隣の大黒山を去年登った時、竜門山も勢いで連登するつもりでした。
けど、大黒山のヤブに体力と集中力を奪われ、断念しました。
大黒山の下山口が、ちょうど、竜門山の登山口でしたから、悔しいが10倍でした。
だから、ずっと、心残りでした。
朝倉方面の地図を開く度、「おいで、おいで」と、お山に呼ばれてたほどに。
で、ようやく、後悔をお返しするときが来たのでした。

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