幸門山、鷹取山は、中世の城址を頂いたお山です。
高縄半島の東部はかつて越智郡と呼ばれていました。
(平成の大合併以降、越智郡に属するのは島嶼部の上島町のみ)。
5世紀後半、現在の今治市を中心にこの地方を治めていたのは越智氏でした。
平安・鎌倉時代になると、その越智氏の流れを汲むとも云われる河野氏が伊豫の国一の大勢力となりました。
戦国時代末期までつづいた河野氏の支配の最中、越智郡一帯にも数々の城砦が築かれました。
瀬戸内最大規模を誇った河野水軍らしく、海を望む高台に城砦は設けられています。
幸門山には幸門城(別名・岡之城)が、鷹取山には鷹取城が築かれました。
現在は成長した木木が視界を妨げるものの、しまなみ海道も遙かに見下ろすことができる山上です。
幸門城、鷹取城ともに、代々正岡氏が城主として居城。
伊豫の正岡一族のルーツとも云われています(正岡一族についての詳細は、正岡会の正岡ワールドをおすすめします。)。
当時は、肥沃な道前・今治平野の覇権を狙って讃岐、土佐、海の向こうの安芸からも度々攻め込まれ、何度も戦が繰り広げられました。
土佐の長宗我部元親が河野氏を屈し、天正13年(1585)、四国を統一しました。
同年、豊臣秀吉による四国侵攻開始。
小早川隆景を総大将とする大軍勢に、幸門城、鷹取城もあえなく落城しました。
現在、城址には石垣や堀切が矢竹や雑草に埋もれるように残っています。
幸門山は登り口に「幸門城趾」の案内があり、登山道も山頂まで明瞭です。
三角点は城址から離れた、矢竹のブッシュの中にあります。
一方、鷹取城はまるっきり案内が無いため、容易にはたどり着けません。
林道古谷小鴨部線終点から登山道に入り、行き止まりからは西から回り込む尾根を外さないようにたどって山頂に向かいます。
山頂に立てば「鷹取山城趾」と刻まれた石碑がお出迎えしてくれます。
|