愛媛県松山市鷹子の北部にある丘陵地帯です。
高縄山を頂点に南へ向け、次第に高度下げながら道後平野へ没する支脈の末端に位置します。
芝ヶ峠を背後に、西から、日王山、牛峯山、塩ヶ森、少し南に天王山の順で並んでいます。
北側および、山頂付近は森に包まれ、日当たりのよい南斜面の多くはみかん畑などに利用されています。
山裾は田畑や住宅地が拡がり、大小のため池が点在しています。
周辺からは古墳・縄文・弥生時代の古墳が多数発見されています。
久米山田池遺物包含地・古墳群、たんち山古墳、鷹ノ子古墳、五郎兵衛谷古墳、大池古墳群、天王山古墳などがあります。
塩ヶ森の東隣、通称・古墳の丘にある五郎兵衛谷古墳は、6世紀後半・古墳時代後期の古墳で、大小11の墓が確認されています。
横穴式石室を有した円墳には、床に玉石が敷き詰められた長さ約4.6m、幅約1.7mの玄室がありました。
被葬者の頭がい骨など人骨片や、耳環、埴輪片、鉄製の副葬品などが出土しました。
再現された竪穴式住居の周りを、近隣の小学生が作った多数の埴輪が取り囲んでいます。
久米村と呼ばれたこの一帯は、1300年ほど昔、久米官衙と呼ばれる古代の役所が置かれた地でした。
当時、この地を治めていたのは有力な豪族で、現代まで地名に名を残す久米氏。
来住廃寺跡は彼らの氏寺と推測されている、白鳳期(7世紀末頃)の法隆寺式伽藍配置を持つ古代寺院跡です。
ほぼ同時代、孝謙天皇に由来する、日尾八幡神社、浄土寺、極楽寺は修理・再建・移転を重ね、今に続いています。
日王山にある日尾八幡神社は、椿神社の神様と夫婦の間柄です。
三輪田米山という、幕末から明治にかけて数万点の揮毫を残した有名な書家が、神官の子として生まれた神社でもあります。
米山の書は石碑や注連石に刻まれ、久米を始め、中予一帯の寺社でよく見かけます。
境内から日王山山頂へ遊歩道を登り切ると、山頂には展望台や中継局のアンテナ施設、尾根に沿って更に進むと愛宕神社があります。
日王山は“日尾”が“日王”に変化したともいわれます。
米山の墓所がある浄土寺は牛峯山の麓にある四国八十八ヶ寺の49番札所です。
本堂は国指定重要文化財、安置されている木造空也上人立像も国指定重要文化財です。
空也上人は平安時代の諸国を廻り、浄土教を広めました。
日王山と牛峯山の間の谷で庵を結んで三年の間、修行し、今でも「空也谷」と呼ばれています
重要文化財の空也上人立像は、南無阿弥陀仏を模した6体の阿弥陀仏の小像が開いた口元から吐き出されたように取り付けられています。
浄土寺の別名・三蔵院の名で三蔵院山とも呼ばれる牛峯山の山頂には、浄土寺の奥の院が小さな公園とともにあります。
極楽寺は伊予十三仏の6番札所です。
孝謙天皇の勅願所で、源頼朝が再建したお寺で、浄土寺の支院のひとつだったと云われています。
北にある塩ヶ森は、南面がみかん畑で、残りは雑木林に覆われ、たんち山古墳のある山頂へは容易に近づくことができません。
素鵞神社のある天王山は、小さなお山で、山自体が天王山古墳です。
天王山の“天王”は牛頭天王に由来しています。
素鵞神社は、全国的には須賀神社の名で多数存在し、スサノオ=牛頭天王を主祭神としています。
神道の神様だったスサノオと、仏教の神様の牛頭天王は、平安時代頃から神仏習合(神仏混淆)され、スサノオ=牛頭天王となりました。
スサノオを祀る神社は「牛頭天王社」「お天王さま」などと呼ばれ、「てんのうさん」の愛称がそのまま天王山になりました。
牛頭天王社や天王神社は、明治の神仏分離で、須賀(素鵞)神社・祇園神社などと改称されました。
日王山と牛峯山は遊歩道で結ばれています。
また、山裾や谷間、ため池の縁沿いに、迷路のようにつながった農道・小径がたくさんあります。
朝夕の散歩、ジョギングに最適なコースとして地元でよく親しまれています。
日王山の展望台からは松山市街が一望できます。
古墳の丘からは、双海の海岸線にそびえる山並みから、皿ヶ嶺連峰、雪を頂く石鎚山まで、視野いっぱいのパノラマを楽しめます。
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