梁瀬山、紅葉山は、大洲にある神秘のお山です。
梁瀬山は、冨士山の南に位置し、国造りの神様・少彦名命の遺骸を祀った神陵があるお山です。
少彦名命は、大国主命と共に諸国を旅し、国造り(国土経営)に尽力、日本という国の礎を築いた神様です。
出雲から伊予に来た二人の神様は松山・道後温泉周辺に多数の足跡を残しました。
その後、南予へと開拓の手を拡げたという伝説が大洲を中心に残っています。
特に医薬・療病・造酒・養蚕の神様とも称えられる少彦名命に関するものが多いです。
内子・大洲で活躍後、更に南へ行こうと肱川を渡ろうとしたときでした。
地元の老婆の助言も届かず、深みにはまり流され、“常世国へ神去り”、即ち、亡くなってしまいます。
その亡骸が流れ着いたのが梁瀬山麓のミコガヨケという場所。
里人は壺に入れ、梁瀬山の谷(御壷谷)に埋葬しました。
そこが8合目に位置するいまの御陵です。
ちなみに、少彦名命が忘れていった薬壺は大洲市の東の壺神山に祀られています。
古事記・日本書紀では熊野の岬から、または淡嶋にて粟の茎に弾かれて常世国へ渡ったとされています。
大洲での神去りの話は伝説の、さらに伝説の域を出ません。
御陵は元は円墳でした。
参拝者が多かったことを理由に明治6年に地均しされてしまいました。
円墳の姿は残っていませんが、祠が祀られているので場所は明かです。
古代の遺物として大洲の彼方此方で発見されている巨石遺跡の一種、ストーンサークルも発見されています。
江戸時代、大洲藩は山全体を神陵として秘密にする政策をとり、梁瀬山は藩主直轄の「入らずの山」禁入の場所となっていました。
明治以降、お山は開かれ、神社建設の機運が高まり、昭和7年(1932)10月、少彦名神社が落成しました。
大洲駅前にある少彦名神社の大鳥居は昭和33年(1958)に建立されました。
ただ、神官が常駐していないため、拝殿より上にある施設の荒廃が激しいです。
御神陵の下にある中殿など倒壊してしまっています。
現在は、地元有志の方々が組織する「おすくな社中」という少彦名神社の奉賛会が清掃や修理などの奉仕活動を行っています。
拝殿は昔のまま維持されています。
懸造りという珍しい工法で建てられている集会所は、近年、修復が行われました。
御神陵から先、稜線まで一気に登ると、ハート型の小さな池が出迎えてくれます。
三角点がある山頂も目近です。
紅葉山は、梁瀬山と尾根続きにあるお山です。
紅葉山も大洲特有の巨石遺蹟がみられるお山です。
かつては見晴らしが良かったであろう9合目から上、西側と北側にストーンサークルが発見されています。
石の下には基礎工事を施した跡が見られ、2m大の石が同心円状に並べられているため、人工物と見られています。
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