大島のお山へ行こう!
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念仏山へ
宮窪~
距離 約4.0km
標高差 約330m
距離 約3.7km
標高差 約330m
一般道
林道・農道・私道
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設
見晴らしあり
  

カレイ山のゲートがあった峠に戻り、
今度は左の道を登ります。
念仏山の北東尾根に沿って登るんですが、急坂です。
アスファルト舗装がかなり、ひび割れてます。
どうしてかと思ったら-



  

大島石の岩石採取場がありました。
重機や石を積んだトラックが通行するので、
舗装がバリバリに割れてしまったのでしょう。
採石場の建物の下を通り-

尾根をどんどん登りますが、道の左右は岩石採取場だらけ。
途中、現場の真上を通過するところもあるので、
高いところが平気なら覗いてみると楽しいかも。



岩石採取場が無くなったら急にひっそり。
急坂だった道も落ち着いて、写真の場所などは下り坂。

すっかり、山道らしくなりました。
舗装のヒビはなくなったけど、滅多に車が来ない雰囲気ありまくり。



アンテナ施設をスルー。



尾根の上を通行していますが、見晴らしはほとんどありません。

  

またアンテナ施設(写真は振り返って撮影)。

念仏山山頂にもアンテナ施設があって、
時々こうして目印のように見えることもあります。



  

森の中を進んでいたら、丁字路に出くわしました。
左の道は林道大戸線でした。
林道を上ってきた人向けに、右の茂みに-

道標がありました。
「←念仏山展望台 カレイ山展望公園→」
ここからすぐ-



念仏山山頂に到着しました!

亀老山やカレイ山の山頂と比較して、
まったく飾りっ気がありません。
アンテナ施設と展望台が同居して駐車スペースも特に設けられていません。
展望台の1階は丸見えトイレ。
昭和に作られたっぽい雰囲気を醸し出してます。

奥側にある階段を登った土手の草むらに-

三角点がありました。
「念仏山」二等三角点、標高は、381.85mです。

階段を登り、3階の展望スペースへ。

  

3階なら充分高いはずですが、
展望台並みに周りの木が成長してしまい、
おまけにアンテナ施設も視界を妨げています。
大島一高い場所ですが、北側は伯方島の宝股山と、
東側の島陰が少ない海が見通せるくらいです。

  

こちらは南から西にかけての眺めです。
来島海峡から西の斎灘に向かって開けていますので、夕暮れ時は綺麗かも知れません。

  

高縄山系をアップで。
来島海峡大橋からずっと左へ延びる半島は、
波方町の岬・大角鼻と梶取ノ鼻です。

  

帰りは山頂手前の丁字路を曲がって林道大戸線で下山しました。
林道ってだけあって山の中をくねくね下ります。
路面状況はいいのですが、1.5車線幅なので、対向車に注意。
といっても擦れ違ったのはたった1台だけでしたけど。



  

“カレイ山へ”で紹介した大島北ICの近くにたどり着きます。

ひとりごと

念仏山は大島で一番標高が高いところですが、観光地化されていません。
狭い山頂にアンテナ施設がふたつもあったり、亀老山やカレイ山に比べ、内陸に位置しているのも不利な要因なのでしょう。
でもそのおかげで、誰にも邪魔されず、プライベート展望台って感じで楽しむことができました。

展望台の周りの木はどんどん成長しています。
5年後とか10年後は、海が見えないくらいになってるかも知れません。
昭和に作られた観光展望台は多かれ少なかれ、似たような境遇ですね。
山間のリゾートマンションや別荘などでも、購入時に見えた景色がまるっきり見えなくなったなんて話はよくあります。
私有地なら伐採して、苗木に植え替えたりすればいいんでしょう。
でも、国立公園とかだったら、敷地外の木に手を出したら不法伐採で逮捕されちゃいます。
亀老山やカレイ山に主役を譲った念仏山の展望台は八幡山のように観光案内もされない普通のお山に戻るのかも。

普通と云っても、大島石の採取場だらけになってる辺りは全然、普通じゃないけど。
大島では採取場のことを「丁場」と云い、島内には40ヶ所もあります。
大島石を中心とした石材業は宮窪町の主要産業です。
その歴史は秀吉の時代、今治出身の石屋治右ヱ門と云う人が良質な花崗岩の層を発見したのが初まりだと伝えられています。
この人は西条の干拓工事で石積みを学び、大阪城で腕を磨いた後、今治城の築城に棟梁として参加した人物。
城にとって石垣は重要な防御施設でトップシークレットでした。
今治城では更に秘密の抜け穴を治右ヱ門らに命じたらしく、それ故に城主から命を狙われることとなりました。
けれど、治右ヱ門は間一髪、逃亡に成功して大島に流れ着きます。
ほかのものはみな処刑されたそうです。
この念仏山の山頂にあった鐘撞き堂に身を潜めます。
辺りの様子をうかがっている時にでも花崗岩の層を発見したのでしょう、石は石屋というわけです。
この話を裏付ける確たる史料は現存しておらず、伝説の域を出ていないそうです。
治右ヱ門作と伝わる石垣や、処刑された治右ヱ門以外の職人を祀る塚など、文字以外の部分で伝説は生きてきたようです。
ただ、今治の目と鼻の先の大島で、石屋なんぞ始めたらすぐに捕まってしまう気がします。
城主の交替などで、取り下げられたのかも知れません。
その城主とは築城の名手と云われた藤堂高虎です。
今治城の築城は関ヶ原の戦から2年後の慶長7年(1602)、完成は慶長9年(1604年)です。
前年に江戸幕府が開府するも豊臣政権の崩壊しきっておらず、まだまだ予断を許さない状態にあった頃のことです。
城の情報が敵に漏れるくらいならいっそ殺してしまった方がいいという、いかにも戦国時代的な昔話は日本中に残っています。
讃岐の丸亀城でもありました。
難攻不落の石垣を築いた功労者の羽坂重三郎が、黙っていればいいのに藩主の目の前ですいすいと登ってしまいました。
後日、井戸に生き埋めにされるという事件がおこっています。
高虎は宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城と築城していった人。
築城の度に職人を処刑していたら、築城の名手とは云われなかったでしょう。
もし処刑が本当なら、後世の藩主か、高虎と対立していた普請奉行・渡辺官兵衛辺りの考えだったのかも知れません
でも、でも、そもそも、今治城は海城。
お堀にタイが泳いでたり、砂丘の上に建てられました。
地下に秘密の抜け穴なんぞ作ったら、海水が染み込んですぐに使えなくなると思いますが。

本格的に採掘されるようになったのは採掘・搬出・運搬技術が向上した明治以降。
戦後の墓石需要の急増と機械化導入で生産力が飛躍的にアップ。
ちなみに、県庁舎や国会議事堂でも大島石が使われてるんだとか。

さて、念仏山の山名は、大津波の被害にあった島民を山の上にいて助かった人々が念仏を唱えて供養したことに由来しています。
先の治右ヱ門の話で山頂に鐘撞き堂があったと云う話が出て来ましたが、山名の由来になった昔話にもお寺が登場します。
潮が急激に引く津波の前兆現象に気がついたのはその寺にいた僧で、ワラや松葉に火を付けて「火事だ、火事だ」と鐘を鳴らしました。
ただ鐘を鳴らしても反応が鈍いだろうから、煙を立てて火事に見せ掛ければ人が集まってくるだろうと、とっさに思い付いたところが素晴らしい。
何ごとだと人人が寺に駆けつけます。
その時、地響きとともにつんざくような爆音を轟かせ、大津波が島を呑み込み、山の上にいた人人だけが助かったそうです。
現代では津波情報はTVやインターネットで速報され、速やかな緊急避難も容易くなっています。
それでも、2010年2月のチリ地震津波では、緊急放送しても避難しない人が多数いて問題になりました。
人は自分だけは助かるだろう思い込むところがあります。
映画やドラマの主人公のように最後まで死なないと思いこもうとするところがあります。
人の最後というのは、死んでやっと気がつくほど、案外あっけなくやってくるものです。
逃げろと云われたら、逃げた方がいい、死んでからじゃ遅いですから。
山の上にいて助かった人々は、鐘を音がもっとよく聞こえるよう、マツの枝に鐘をかけました。
そのマツは「鐘かけ松」と呼ばれ、昭和の初め頃まで現存していたそうです。
…と、ここまで云っておいてなんですが、そんな大津波が襲ったという記録は、実は、ありません。
念仏を唱えたというのは、別のことだったのかも知れません。

というわけで、念仏山を最後に大島のお山歩、終了です。

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